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ゲーム音楽これを聴け!

わたしは いだいな ぶとうか。 うわさでは すでで くまを たおしたことになっておる。 しかし じつは てつのつめを つかって いたのだよ。 わっはっは。 ゲーム音楽とプログレ、ジャズロックが中心。ドールも始めました。うちのドールが勝手にツイッターで呟いたりしてますので、そちらもよろしく。

 

我が家のルーツ探し 

先日、母が押入れの古い着物やら洋服やらを整理していたら、物凄いものが出てきました。
それは、母の祖父、私から見ると曽祖父である人の書き残した、一冊のノートでした。
今でいう大学ノートのようなものですが、表紙は堅い紙質で、ちょうどハードカバーの本の表紙のような手触りです。
その一ページ目を開いて、驚いてしまいました。


宣戦ノ詔勅
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚を践メル大日本国皇帝ハ……(以下略)

と、達筆な文字で宣戦の詔勅全文が、ノート一面にびっしりと書き込まれています。
これは何かというと、日露戦争時における天皇の宣戦の詔勅です。
日露戦争!!え!?
何しろ私の曽祖父のノートなのですから、それぐらい古い年代なのは当然なのですが、それにしてもびっくりしました。
なぜ、これを書き残したのかはわかりません。しかし、当時はコピー機などない時代ですから、もしかすると次世代に伝えるために、曽祖父が書き残したものだったのかもしれません。
日本は昔、戦争をしていたという事実を伝えるために。
本人の感想等が書いていないことを考えると、おそらくこの文章を自分の子、つまり私の祖父に見せて、何がしかを教えていたのかもしれません。

さらにページをめくると、何やら戦艦か何かのエンジンのデータが数字とともにびっしり書き残されています。
何かの単位らしきものが英語で書かれており、その横に数字が書いてあります。
その次には、恐らくですが燃料の計算式のようなものと、それによってどれぐらいの航続距離を伸ばせるか、その研究内容が書かれてあります。
そして、特許取得に関する書類の作成方法や、法律の条文などがびっしり。
それを見て、思い出しました。
以前、祖父からこんなことを聞いたことがあります。
曽祖父は海軍に所属していて、少ない燃料でいかに軍艦の航続距離を伸ばせるか、その研究を独自に行っていた、ということ。そして、それによって軍から表彰された、ということ。
ということは、このノートはつまり、曽祖父の海軍時代の研究ノートであるのです。
まさかそんなノートがひょっこりと見つかるとは思ってもいなくて、私も母も驚いて、ノートにじっくりと見入ってしまいました。ウチの曽祖父は凄い人だったんだぞ!と、胸を張って言えそうです。子孫はちょっとダメですけど…(笑)
いいや!自分も曽祖父の血を受け継いでいる人間です。きっと子々孫々に胸を張って伝えることの出来る何かを残すことが出来るはず…!
読んでいて、写真でしか見たことの無い曽祖父のことを考えていたら、なにかじ~んときてしまいました。それと、祖父がしきりに語っていた戦争の時代を思い出しました。
そう言えば、12月8日は太平洋戦争開戦の日。もう二週間ほど経過しましたが、そんな時期にこのノートが出てきたというのは、何だか運命的なものを感じてしまいます。

さらにノートをめくると、法律のことがたくさん書いてありました。
これも祖父から聞きましたが、曽祖父は法律に大変関心があったそうで、よく裁判の傍聴に出かけていたそうです。
そんなおじいさん、どこにもいないよ!実際に大学で法律を学んだ私ですら、行ってません。情けない…。
それから、これはだいぶ前に、母が押入れの整理をしていた時ですが、今でいう耕運機の原型のような機械の設計図が出てきたことがありました。
確かに、これも祖父が言っていました。
畑を効率よく耕すのには、これからはこういう機械が必ず必要になる、と独自に設計して、しかも実際に制作して畑で使用していたそうです。
よくわからない機械を作って畑を耕していた曽祖父を見た近所の人は、曽祖父が何をしているのか全く理解出来ず「あんなもんであいつは何をしてるんだ?」と、奇異な目で見られていたようです。子供だった祖父も理解出来ず、わけもわからず曽祖父の言う通りに機械操作を行い、近所の人から変な目で見られるのが嫌だったそうです。
しかし、これこそが現在の耕運機の原型だったのです。まさに、知られざる歴史ですね。
海軍でエンジン系統に精通していたからこそ、このような機械を製作出来たのでしょう。

調べたところによると、耕運機を発明したのはオーストラリアのアーサー・クリフォード・ハワードという人とされていて、1920年だそうです。その頃から耕運機が導入され始めましたが、まだまだ普及はされておらず、1931年に国産耕運機が開発されても、実際に我が国で耕運機が本格に普及し始めたのは戦後、1950年頃だそうです。
さらに急激に普及し始めるのは1967年で、300万台以上が生産されたそうです。
祖父が小さい頃(恐らく10歳前後とします)に曽祖父の発明した耕運機を実際に使っていたのですから、それはおそらく1930年代初めの頃。国産耕運機が開発されたかされていなかったか、という時期だと思います。
ということは、ようやく国産機が開発されたけれども、まだまだ導入し始めで普及していなかった耕運機にいち早く目をつけて、高価で買えなかったか、性能的に問題があったからか理由はわかりませんが、それならばと自分で製作したということなのかもしれません。
ただ、今のようなネットも何も無い情報の少ない時代ですから、自分で作り上げるのは容易なものではなかったと思います。ですから、ほぼ全て独自に作り上げたのでしょう。
その、ほとんど同時期と思われる頃に国産の耕運機が開発されたのですから、曽祖父の先見の明たるや、物凄いものがあります。

ノートはまだまだ続きます。
恐る恐るページをめくらないと破れてしまうのではないかと思いましたが、意外にもしっかりと残っていて、虫食いも全然ありません。ただ、気をつけてめくらないとページがバラバラになってしまいそうではありました。
それでも、文字はしっかりと判別出来ますし、かすれてもいません。曽祖父の「伝えたい」という意志の強さが現れているようで、読んでいると言いようの無い思いが心に溢れてきて、少し涙ぐんでしまいました。
その後のページも、漢字とカナ文字でびっしりと、法律のことやエンジンのこと、特許のことや難しいことがいっぱい書かれてありました。新聞記事の抜粋と思われるような箇所もあり、これは研究ノートおよびそれに役立ちそうな考えや出来事を綴ったものなのだ、ということがわかりました。几帳面だった曽祖父は、おそらく、しっかりとした研究ノートは別にあって、そちらにはさらに詳細な研究の内容が書かれているのだろう、と思われます。
しかし、戦争の時代を超えて、幾度かの引越しの中で紛失してしまったものがいっぱいあるので、そんなノートは残っていないかもしれません。残念ですけど…。

私の祖母は、古いものは何でも捨ててしまう性格の人でした。戦時中に空襲の中で逃げ回ったり、防空壕で眠れぬ日々を過ごした経験のある人でしたから、戦時中の品物は一切見たくもなかったようなのです。
その為に、その時代にあったもの全てが、苦い経験を思い出すことに繋がってしまいますから、どんどん新しいものへ新しいものへ、と買い換えていったのです。それも十分、痛いほどによくわかります。どれほど悲惨な経験をしてきたのか、絶対に話さなかったのも、うなずけます。
それでも、こうやっていくつかの品物は残っていました。おそらく危機感を感じた祖父が、祖母に捨てられないように隠してもっていたのだと思います。そのような品物が祖父の遺品整理の中で、いくつか出てきたこともありました。
祖父も自分の父親を尊敬していたそうで、そのことは私も聞いたことがあります。だから、必死で後の世代に伝えようと持っていたんだろう…。
なんだか、書いていて泣けてきてしまいました…。私も祖父のことは尊敬して、今でも敬愛していますので、祖父のことを思い出すとどうしても目が潤んできてしまって、他人には絶対に話せないんです。
こうしてネットの中では文章で公表することが出来ますから、良い時代になったものです。
きっと誰かが、見てくれている。そう思って、私は今、こうして書き綴っています。

さて、この祖父のノートの最後に、見慣れぬ名前とその人の住所が、なぜか書き残してありました。
それはどうやら、曽祖父の兄のお嫁さんの名前のようです。うちの仏壇にある位牌を見てみたら、その方の名前があり、その隣に曽祖父の兄の名があったので、恐らく奥さんだと推測しました。
その住所が、なんと東京市。
曽祖父は千葉に住んでいましたが、兄のお嫁さんの住所として東京市と書いてあるのですから、曽祖父の実家は東京市であった可能性が高いです。
その昔の話ですから、長男が家を継ぐのは当然です。その家に嫁いで来たのですから、お嫁さんの住所が長男と同じなのは当たり前。その長男が婿養子で無いことはわかっています。
千葉の家は、曽祖父が自分で新しく建てた家で、代々受け継いだ家ではないということは、祖父から聞いてわかっています。ということは、我が家のルーツは東京市にあるのかも…?
それに、曽祖父は幼い祖父を連れて、頻繁に東京に出かけていたそうです。お参りも必ず水天宮だったとのこと。地元の千葉にも神社はあるし、どうして東京の方へ行くのか、その理由がここにあるのかもしれません。
祖父がその辺のことはあまり話さなかったので、今となってはわからないです。何しろ祖父の青春時代は戦争の時代。戦争が青春の時代だったのですから、これほど強烈な体験はありません。ですから、口を開けば必ず戦争の話をしていましたので、そういった曽祖父の実家のことなどはわからずじまいになってしまいました。
それでも、本気で調べればわかるかもしれません。

そう考えると、一つ納得することがあります。
私は、地元の千葉にいると、何か違和感を感じることがあるんです。ここじゃない、ここにいちゃいけない、という得体のしれない妙な不安です。職場にいてもそうです。
地元の千葉出身の人とは何だかかみ合わない。凄く気が合う人は、大体東京の生まれの人とか、神戸の人とか、とにかく千葉じゃないです。
価値観とか考え方が何だかみんなと違うというのは、実は小学校時代からずっと感じていました。そのせいで、友達は非常に少ないどころか、孤立していました。気が合う友達はことごとく転校生でした、そう言えば。みんなすぐにまた転校してしまって、私の孤独感と喪失感はとても大きかったです。
私の盟友、アソラソ氏は千葉ではないので、気が合うのかもしれません。

しかし、東京の方、例えば曽祖父が祖父を連れてよくお参りに行っていたという水天宮や神田界隈を歩くと、千葉にいる時とは違う妙な安心感というか、故郷に帰ってきたような懐かしい気持ちになったりして、自分でもおかしいなとは思っていたんです。
ルーツが東京市だと考えると、その辺が非常に納得出来ます。もし曽祖父の実家が東京市でなかったにしても、縁はあったわけです。その昔、千葉の田舎の近所で、そんな頻繁に東京に出かける人など皆無だったそうですから、何か縁があって出かけてたはずです。その曽祖父と、祖父の血を色濃く受け継いでいるのが私、カシマなのですから、何か安心を感じるのは気のせいではないのかもしれません。

母にもよく言われますが、私は祖父に非常によく似ているそうです。自分でもそう思います。そして性格が、どうやら曽祖父に似ているそうです。
曽祖父は決して声を荒げず、穏やかで優しい人だったそうで、祖父は曽祖父に一度も怒られたことが無かったそうです。祖父は、学校で不良として喧嘩ばかりの毎日を送っていたそうですが、それでも曽祖父は全く怒鳴ることもしなかったそうです。
私も、人に怒鳴るということはまずありません。今までを振り返って、怒鳴られることはありましたが、相手を罵ったり怒鳴ったり怒ったりすることは一切しませんでした。いじめられても、むしろ相手をかわいそうに思ってしまうような、そんな子供でした。それに、怒鳴ったり怒ったりすると、自分自身も気分が悪くなるので、嫌なんです。それは今でも変わりません。そんな曽祖父を尊敬して「オヤジは頭が良かったんだがなあ…おれはバカでよお」とよく冗談まじりに言っていたのを覚えています。

今回のおよそ100年前のノート、もし公開出来るようであれば公開したいと思います。それには厳しい母の許可が必要ですが(笑)

それと、一つ考えたことがあります。
こういう、何かを伝えて残していくには、子孫がいなければ決して伝わっていきません。
そのために結婚する、という考え方も良いのでは、と思いました。
恋愛して結婚するのが一番という考え方が蔓延していますが、そうではなくて、自分自身が生きた証として、それを残すために結婚して子孫を残していく、その手段としての結婚、という考え方です。
古風な考えかもしれませんが、私はそれも有りだと思います。
恋愛感情だとか何だとかはなくとも子孫を残すために、また、先祖の生きた時代、自分の生きた時代を伝えていくための手段として。それに、人情があるのなら、ずっと一緒にいれば次第に相手に情が湧いてくるものです。
その昔は、お互いの顔も知らずに結婚当日に初めて顔と名前がわかって、結婚したということもあったそうですから、恋愛結婚だけが全てでは無いと思います。あるいは、いい年をしてみっともないから、世間体を保つために取り敢えず形式的に結婚だけしておく、という人も実際にいたそうです。
晩婚化と独身の多い今の世の中で、恋愛結婚に憧れて出会いを求める人は数多くいると思いますが、今回の曽祖父のノートを見たり祖父の話を思い出したりして、こういった古風な考え方も重要なことだと、私は感じました。

こんな古風な考え方に同調してくれる人は、私の同世代どころかどんな世代でもあまりいないのかもしれませんけど。
今回のことで、そんなことを考えました。
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Category: 雑記

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