09 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

ゲーム音楽これを聴け!

わたしは いだいな ぶとうか。 うわさでは すでで くまを たおしたことになっておる。 しかし じつは てつのつめを つかって いたのだよ。 わっはっは。 ゲーム音楽とプログレ、ジャズロックが中心。ドールも始めました。うちのドールが勝手にツイッターで呟いたりしてますので、そちらもよろしく。

 

クーロンズゲートサントラ発売記念第四回「わたしはクーロンズゲートになぜハマったのか?」 

発売記念第四回は、わたくし、カシマがクーロンズゲートに出会ってハマりにハマっていった過程とその後について書いていこうと思います。ですので、謎めいたストーリーについての解釈や解説等はいたしませんのであしからず。非常に個人的な記憶を取りまとめたものになります。


まず、『クーロンズゲート』というタイトルを目にしたのは、プレステ発売当初からだった。ファミコン時代からアドベンチャーゲームが好きだったせいもあり、「次世代機でのアドベンチャーゲーム」というだけで胸躍らせていたものだった。
タイトルから推測するに、きっと香港映画のような場所を舞台に繰り広げられる探偵もののアドベンチャーだろう、そんな風に思い、発売を待ち遠しく感じていた。
しかし、ゲーム誌を読むたびに発売ラインナップにはいつもあるのに、いつまでたっても発売される気配がない(そう言えばこれを書いていて思い出したが、同じくラインナップされていた『猿田彦の暗号』というゲームも気になっていたのだが、ずっと発売されず、後にとうとう発売中止になってしまっていた)。
いつになったら出るのだろう、と思っていた1996年3月、プレイステーションエキスポというプレステソフトのみのイベント(今思えば凄いイベントだ。当時のプレステの勢いがうかがい知れる)に出かけた際に、なんとクーロンズゲートのブースがあった。
結構豪華に作られていて、モニターが何台もずらりと並び、どれもクーロンズゲートのPVを流していた。さらにはコンパニオンのお姉さんたちが特製のクーロン紙袋に入ったPVビデオを無料で配っていたのだから驚きだ。私は感動して、ブースを何度も往復して三つももらって持って帰った(うち一つは、プレステエキスポに行けなかった友人にあげた)。
モニターに映し出されていたのは、得たいのしれないノイズの中「君はこれから偉大な体験をする」と声を張り上げる謎の男。
「お!青野武!」
まず、この時点で声優マニアであった私はぐっと引きつけられた。しかしPVを見ていっても、一体どんなゲームなのかさっぱり検討もつかん。さらに不可思議で奇妙なサウンド。
一体このゲームはなんなんだろう…?何が目的で何をすればクリアーなのか…?謎のまま、帰宅することになった。

それからしばらくして、97年にめでたくソフトが発売された。しかしながら、いくら注目していた作品とはいえ、かなり得体の知れない作品であったので「もしかしたら物凄くつまらないのかもしれない」という不安があった。そのせいか、すぐには手を出すことは出来なかった。金の無い高校生であったので、ソフト選びには非常に慎重だったというせいもある。
ようやくプレイしたのは確か一年くらいたった頃だったろうか。初回限定版が1000円くらいで売っているのを見て、これなら外れてもいいだろうと思い、購入した(要は、出荷は多かったが売れなかった、ということだろう)。
早速、家に帰ってパッケージを開ける。
(ん?4枚組み…?すげえな。FF7並みじゃん)
ということは、それだけ容量がデカいというわけだ。それでアドベンチャーなら、実写映像や美麗なCGがたくさん詰め込まれていて、ストーリーもさぞかし長いのだろう…。
ディスクのデザインも良い。青龍、朱雀、白虎、玄武と書いてあってデザインがいかにも中国っぽい。
期待に胸を膨らませ、ディスクを起動。
…なんだこの気持ち悪い弁髪の人形は。まずそこでやられた。これ、何?
と、混乱している頭に唐突にあのOP曲とあの映像がぶちかまされるもんだからたまらない。それは、あのプレステエキスポのPVの中でも聞いたあの音楽と映像だった。おお、あれがオープニングだったのか。
しかし、OPムービーが終わってもやっぱりさっぱりわけがわからん。地面を這ってどどどどど、と迫ってくるこれって何?変な蓄音機みたいなの持ってハンドル回してるサングラスの小人は何してるの?
頭の中が?だらけの中、ゲームを始める。

さてここからは若干プレイ日記っぽくなります。

「なぜ、君がここに呼ばれたか、もうわかっているはずだ」
…すいません。さっぱりわけがわからないんですけど。
なんかお偉いさんっぽい人たちに「~しなければならない!」(最初は理解出来なかった)と指差されてご使命を受けてしまった、ということだけはわかった。けど何をすればいいのかわからない。
ところで、発売が遅れた割にはムービーちょっと画質荒くない?とか思ったりした。
すると、白い顔の美人が近寄ってきて「風水スコープ」なるものをくれた。どうやら「気脈の歪みを見ることが出来る」らしい。それ見てどうするの?というこちらの疑問は解決することなく、扉を抜けると
(うわ…なんか誰か死んでる?)
ほんの一瞬だが、誰かが倒れる様が映った。でも主人公は気にもせず、どんどん階段を上がっていく。
(今のは単なる風景として処理していいの?それとも何かこの先で重要な意味が?)
?マークがどんどん増えていくのだが、ゲームはお構いなしに進んでいく。
そしてついた目の前には、怪しさ全開のスキンヘッド男。目つき悪い。
○ボタンで会話してみると「びん屋」。島田敏(しまだ・びん)と何か関係が?と声優マニアの俺は心で突っ込む。カカロットォ~。スローイングブラスタア~(ここで声が裏返るのが島田敏)。
まあそんなことはともかく。
で、びん屋が言うには「鏡屋が邪気でどうのこうの」と。鏡屋って誰だよ。そんな来たばっかりの俺が知ってるわけないのに、何か誰でも知ってる風に話されても困るんだけど。
で、移動してみると、これはびっくり。移動が全部ムービー!序盤だけかと思ったら、このゲームもしかしてずっとこういう感じ…?うっわあ、すげえ時間かかりそうだな…と正直ちょっと不安になった。普通のアドベンチャーでもなんでもそうだけど、ゲームってのはさっさとクリアーして「俺~時間でクリアしたぜ!」と自慢するのが普通だったんで。ゲームってそういう側面がある。クリアタイムを競うってやつ。
ところがクーロンズゲートにはそれがない。クリアタイム?そんなの一年でも二年でも構わない。場合によっちゃあ途中で投げ出しても構わないぜ。
このゲームには、何だかそんなユーザーを突き放して挑戦しているような、硬派な世界観を感じた。ん?これはファミコンの『女神転生Ⅱ』の再来か?と思った。誤解されるような書き方だが、自分にはそう感じた。
ファミコンの『女神転生Ⅱ』はプレイした当時、本当にわけがわからなかった。悪魔が全部敵なのかと思えば味方にも出来るし、では自分は何と戦っているのか…?単純な善悪だけでは判断出来ない独特の世界観。そして、攻略本無しではまずクリアーは出来ないだろう、現在からすれば極悪とも言える難易度。そして、テキストの少ない、難解なストーリー。
クーロンズゲートをはじめた時、女神転生Ⅱをプレイした時のような、なんというか強烈な「プレイヤーの孤独感」を感じた。決して裏切らないような、安心出来る仲間がいるわけではなく、自分で道を切り開いているように見えるが、実は大きな流れの中にいて、自分はそこでもがき苦しんでいるだけなのだ…。
実際、クーロンズゲートという作品は、超級風水師である「私」が陰界をさまよい、運命に翻弄されゆくだけのゲームなのだろうと思う。一つの大きな運命に。だからマルチエンディングでは無いし、物語の途中分岐も無い。ファミコンの時代から既に存在していたマルチエンディングや分岐という手法をとらなかったのは、そういうねらいもあったのではないか。
マルチエンディングや分岐というのは、一つのゲームを何度も楽しむための有効な手法だ。サウンドノベルがその代表的なものだろう。しかし、クーロンズゲートには無い。昔ながらのアドベンチャーゲームのようなシステムをそのまま使っただけ、という見方も出来るだろうが、私にはそうは思えない。このゲームの物語の流れを考えると、マルチエンディングも分岐も無くてよかったのだろう、と思う。そもそもそういう考えすら無かったのかもしれない。
クーロンズゲートという作品自体に、製作者が呑み込まれていった…と考えるのはややセンチ過ぎるだろうか。つまり、製作者が意図するとしないとに関わらず、あるべき姿となって立ち現れた、という考えである。

さて、実際のところ、ハマるまでには多少の時間を要した。まず、ムービーによる移動。これに慣れるまでに結構な時間がかかった。そのためには「これはこういうゲームなんだ」と割り切ることが大事だった。
つまり、他のゲームのように、強制イベントが起きてどんどん先へ行ってしまったり、歩いてるだけで敵と遭遇して戦わされたり、といった「先を急かされる」ことが無いのである。ゆえに、観光気分で、ふと思い立った時になんとなくやることにした。そこからは非常に自分のペースで進めることが出来るようになった。おかげでムービーでの移動も苦になることなく、むしろ面白いカメラアングルを味わいながら、一瞬だけ映るオブジェの作りこみに目移りしながら楽しむことが出来るようになっていった。
次に、ダンジョン。これは今でもちょっと苦手だ。何度もクリアーしているのに、よく迷う。
ナビがいるといっても、うっかりセリフを聞きのがしてしまうとかなり迷うハメになる。実際、ゲーム後半でのダンジョンでは1時間ぐらいずっとさまよったことがある。普通のRPGやアドベンチャーだったらすぐに諦めてリセットして、もう一度やり直すところだが、そこはクーロン。ゆっくりとプレイすることに慣れてしまっていたので、1時間さまよっても気があせることもなく、のんびりダンジョンを探索。
「あ~、なんだここかあ」とわかってしまえばすぐ近くの目的地だった。それでも「ナビ不親切じゃねえか!?」「もっとわかりやすくしろ!!だからクソゲーなんだよ!!」と怒り出すことも無かった。何故なら、それがクーロンズゲートだから。他のゲームにはない、独特の”リアルな”時間が流れているから。そしてそれに慣れたから。つまりは、ゲームプレイ中には完全にクーロンの世界に同化しているから。
”リアル”な、というのはつまりゲーム内の時間と私たちの実生活での時間に差がないことを意味する。
通常、ストーリーのあるゲームでは、ゲーム内だけの時間が流れている。ストーリーの進行上、いきなり1年たったりすることもあるし、一日が数秒で終わる時もある。だがクーロンには明確な時間の表記が存在しない。一応、ゲーム内では5月22日から5月23日に日付が変わった、という場面が出てくるが、いつ1日たったのかがわからない。朝なのか昼なのか夜なのか、それすらもわからない。
つまり、ゲームのプレイ時間が、そのままクーロンズゲートというゲームの世界で流れているわけだ。クーロンズゲートのPVの冒頭で引用されている陰陽師のセリフ「君はこれから偉大な体験をする」というのは、その言葉通りだったのである。
クーロンズゲートは「体験する」ゲームであるということ。実生活において「早送り」や「巻き戻し」や「経験値稼ぎ」が必要ないように、クーロンズゲートでも必要がない。つまりは実生活にそぐわない、いかにもゲーム的なそういった快適なシステムを極力廃することによって、プレイヤーに体験(体感と言ってもいいだろう)させる、というのが目的の一つであったのだろう。
このリアルな時間の流れ(あえて”クーロン時間”とでも呼ぼうか)、独特のゆったりとした時間の流れが体に受け付けない人は、きっと耐えられないほど緩慢でつまらないゲームに思えるのだろうと思う。おおよそのゲームは性急で結果を重視しているため、ゲームをプレイする人の多くは結果をすぐに出したがるものだからだ。
クーロンズゲートは「体験」であり「体感」でもある。コンピューターの作り出した仮想空間にも関わらず、においや湿度が感じられる。生活の音が聞こえてくる。時々目まいを起こす。理路整然としていない。自分がどこへ向かって何がしたいのかがわからない。
これはつまり、我々の生活そのものではないか。「陰界の九龍城が陽の世界に姿を現した」ということは、つまりクーロンズゲートというソフトを使ってモニターの中にクーロンズゲートの世界が広がった、ということである。
それを示唆する言葉や演出はゲームの随所に顔を出すのだが、これについては『クーロンズゲート 公式ガイドブック』(いわゆる銀本と呼ばれているやつだ)の注釈に書かれている。残念ながら手に入りにくい本であるので、復刊が待たれるところだ。

そうして陰界で生活すること4週間。見立てが終わって私は陰界から陽界へと戻ってきた。それでも時々、思い出したようにまた陰界をさまよいたくなる。つまり、ぶらぶらとあてもなく散歩したくなるのだ。
では、クーロンズゲートがもし箱庭ゲームだったとしたら…?
そうだったとしたら、移動は全て自分の意思で行うわけだ。そうなると移動アクションがあり、歩いているように上下に画面が揺れたりするだろう。それではクーロンには似合わない。やはり、あの浮遊するような独特のカメラワークでもって移動するのが素晴らしいのだ。

いまだに、クーロンズゲートほどの異彩を放ち、かつ、強烈な体験を提供してくれるゲームを、私は知らない。
そして、ストーリーを楽しむでもなく、戦闘を楽しむでもなく、ただ、その世界を味わいたいだけで、何度もプレイしてしまう。そんな驚く程の中毒性のあるゲームが、このクーロンズゲートなのである。
スポンサーサイト

Category: 九龍風水傳

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://kashimasan.blog66.fc2.com/tb.php/973-010984f8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)