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ゲーム音楽これを聴け!

わたしは いだいな ぶとうか。 うわさでは すでで くまを たおしたことになっておる。 しかし じつは てつのつめを つかって いたのだよ。 わっはっは。 ゲーム音楽とプログレ、ジャズロックが中心。ドールも始めました。うちのドールが勝手にツイッターで呟いたりしてますので、そちらもよろしく。

 

クーロンズゲートサントラ発売記念最終回「俺のクーロンズゲート」 

リ・トライ

遊戯結束があったら次はリ・トライです!!ってかオマエ最終回何回やるんだよ!?って話ですが(笑)
いいじゃん、俺のブログなんだし。ってなわけでリ・トライ記事です。リ・トライ記事なんてブログ初でしょうね(笑)よく意味がわかりませんが。

さて、混沌とした俺の脳をさらに混沌へと導いてくれた珠玉のゲームソフト『クーロンズゲート』が発売されて17年。俺は7月4日で33歳になった。HAPPY HOUR BIRTHDAY!!!いえ~い。まあ家族以外は誰も祝ってくれませんが(笑)
そんな俺の誕生日目前にして突如、陰界から復活を遂げた『クーロンズゲート』!!最高の誕生日プレゼントだ!!!もう今年はクーロン再燃の年としてもいいだろうね。もっと色んな動きがあったらいいなあ。
で、まあクーロン次回作はあるのか?ないのか?あるのかないのか?(陰陽師風に)
結論としては、「無い」と。当時のスタッフが再集結して同じ作り方で次回作、というのはもうあり得ない、と。
クーロンサントラ発売記念イベントで、プロデューサーの須藤朗氏もおっしゃっておられたが「今度はみなさんで作って下さい」と。同じ奇跡は二度起きない。けど新しい奇跡なら…ということだろうな。
それは『クーロンズゲート次回作』という形ではなくとも、クーロンズゲートの意志を受け継いだ作品が生まれて欲しい、という願いでもあるのではないか。つまり、制作者がやりたい放題好き勝手にやり過ぎるぐらいやっちゃうような、そういう作品を作ってくれ、とのメッセージでもあったのではないか。

エピックソニー黎明期の大ヒットプロデューサー、吉川成昭氏の記事(こちらの第二部(12))によるとクーロンズゲート制作費は約5億円だとか。かなり大掛かりな一大プロジェクトだったことがわかる。そして、スタッフの尽きない情熱の結集が、あの作品となったのだ、ということも。

世の中には『クーロンズゲート』をプレイして、おおよそ4種類の感想を持つ人間にわけられる。
一生ついていきます!な人と、あんなウルトラクソゲー二度とやりたくねえ、な人と、ああまあいいんじゃねえの?な人と
つまんないけど魅力はあるよね、な人。
もちろん俺は一生ついていきます!な人である。で、この4種類の人間にあったことが実際にある。しかし悲しいことに、一生ついていきます!!な人には一人も会ったことがない。

あんなクソゲーどこがいいの?というヤツがいた。そいつは「プレイしてて面白いゲーム」が好きなヤツだった。ストーリーや世界観、ビジュアルなどどうでもよくて、プレイしてて気持ちいいか、つまりゲームに作品性を求めず、快楽だけを追求するタイプだ。こういうヤツは確かにクーロンズゲートはつまらないだろう。
こいつから紹介してもらったゲームもいくつかあって、確かにそれは面白かった。だが、俺には圧倒的に何かが足りなかった。
「思い出」だ。「思い出」がない。プレイしていて面白いが、何も残らない。

ああ、あのゲームね。よくわからんしもう一度やりたくはないな、というヤツがいた。そいつは特にゲーム好きでも何でもなく、たまたまクーロンズゲートをプレイしただけのようだった。面白いともつまらないとも言わない。
こいつは何でも流されるようにゲームをするだけで、興味を持って動こうとはしないヤツだった。
こいつは、世界観を理解しようとか、こういうところが上手いとか、細部まで見ないヤツだった。こいつがハマってるゲームは結局単調な万人向きのゲームだった。

ゲームとしてはつまんないけど、世界観は好きだね、というヤツがいた。あの独特のビジュアルは確かにインパクトがある、と。一定の魅力は理解出来ると。しかしゲームとしては全くつまらない。ダンジョンもわかりにくくてダメだ、と。
こいつはゲームの欠点、というか気に食わない部分をあげつらうだけで、ゲームを楽しんでいる風には見えなかった。一体なぜゲームをプレイしているのか、俺にはわからなかった。
こいつは結局、ゲームをやめた。

そして、俺。いまだにクーロンズゲートをプレイすることがある。
クーロンCDが発売される!と知る少し前、急に思い出したようにプレイした。
相変わらず陰界は薄暗く湿度があって、風は生暖かったり冷たかったりした。
ストーリーを進めるでもなく、ダンジョンに入ることもなく、龍城路をブラブラと行き来する。なんだかそれだけでも楽しいのだ。
通り過ぎる道の細部に細かく作りこまれたオブジェクト。それらに触ることの出来ないもどかしさ。そして、ストーリーを進めなければならない、という使命感が全く無い、奇妙なゲーム性。いつまでも浸っていられるが、決して帰ってくることが出来なくなる、クーロンの毒。
音楽が素晴らしいから好き、なのではない。ストーリーが秀逸だから好き、なのではない。戦闘が楽しいから好き、なのではない。ビジュアルが素晴らしいから好き、なのではない。
全てが好きなのだ。何もかも。ゲームのパッケージからディスクのデザインから何から何まで全て。クーロンズゲートを形作っている全てが、この上もなく好きなのである。
『クーロンズゲート』をプレイしているときは、ゲームをしているという感覚がない。陰界をさ迷っている、という感覚なのだ。
アトラクションを楽しむような感覚ではない。モニターの中に実在する陰界の中に、自分が入り込んでいるのだ。比喩表現ではなく、真面目に言っている。
それこそが、クーロンズゲートという作品がもたらした大いなる「妄想」である。妄想という言葉が気軽に使われ始めて久しいが、空想と妄想は全く違う。
空想はありもしないことを想うだけで、それが事実だとは思い込んでいない。しかし、妄想はありもしないことを事実だと思い込んでいることである。
今でも俺の妄想の嵐は止まない。

クーロンズゲートは俺にとって事実である。そして俺の身に起こった奇跡の体験である。そしてその奇跡を体験した人はプレイした人のうち、どのくらいいるのだろうか。

クーロンズゲートファンの集いのようなものをやったら、一体どうなるのだろう。「好き」の温度差はどれくらいあるか、わかるのかもしれない。
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Category: 九龍風水傳

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